徒然ブログ(日記) 烏有の呟きや落書き置き場。
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しかし、私には休みなど…………いや、休みます。
そういえば、この前友人と迎賓館を見学してまいりました。
外国からの国賓の方々がいらっしゃらない夏期に、一般公開されているのです。
まぁ、一般公開といっても、五月頃にはがきで応募し、抽選を待つわけですが……。
運よく、抽選に受かりましたので見学できました!
以下、詳細は つづき から←
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本で見つけましたw
以下抜粋です↓
元治元年(1864)秋、京の町で、ある趣向を凝らしたおはぎが飛ぶように売れていた。
趣向といっても、3つのおはぎを盆の上へ三角形に並ぺ、底辺にあたる部分に箸を置くという他愛もないものだったが、実はその形に深い意味があった。
長州藩藩主毛利家の「横一文字に三つ星」の家紋を象ったもので、長州藩の城下町である荻とおはぎをかけていたのである。さらに、石高の36万石に合わせて、売り値は36文。
「長川おはぎ」と呼ぱれたこの食ぺ物は、買い方にも決まりがあった。
買う側は「まけてくれ」といい、売り手は「まけん」と返す。つまり、「長州は負けない」というわけである。
通商条約の締結後、安政6年(1859)から横浜・長崎・箱館の3港で貿易が始まり、日本からは生糸・茶・海産物を輸出、代わりに繊維製品や軍需品が輸入された。特に、安価な綿織物の流入は、京や大坂などの織物業に大打撃を与えた。
経済は混乱し、物価は上昇、ひいては庶民生活を圧迫したのである。
こうした状況はすぺて、勅許を得ぬままに開国を断行した幕府の責任であるとして、攘夷を掲げた長州を支持する[長州贔屓」の気運が高まっていた。折しも、禁門の変で大敗を喫した長州をさらに討伐する勅命が下されたばかりの頃だった。
長州おはぎの登場は、声高に長州支持を叫ぶことのできなかった民衆意識の表れだったのである。
との事なのです。
なんだか当時の京の人の発想が可愛い過ぎますwww
その心を味わうべく、さっそく、おはぎを三つ調達して「長州おはぎ」を食べてみたいと思います←
曰く、着るのが一番難しい民族衣装。
そんな着物や浴衣、袴姿にロマンを感じます、烏有です←
そんな私も習い事の関係で、ごくたまに着物を着る機会があるのですが、母に手伝ってもらいながら必死に着ています。
もう単衣物の時期ですし、そろそろ絽や紗の着物や帯の方が増えてきますねぇ。
目の保養です(笑)←
最近は着物と浴衣の区別がつかない人も増えているようですが………
着ない人には、おんなじですね。
あと浴衣で、襟をぐいっと後ろに引くというか…襟を抜くって言うんですか。
それをしない人が多いと母が言っていました。
あれをすると、すごく粋に見える気が(私は)するんですが、
しないのか………orz
唐突にそんなことを思いました←←
